AIの民主化と、その裏側
Claude Coworkのようなサービスの登場により、AIが一般の人々にも身近なものになってきた。それに伴い、これまで専門知識がなければ難しかった業務の自動化も、誰でも気軽にできるようになりつつある。ものすごい進歩を感じる一方で、かつてないほど面倒が増えているとも感じている。ITの民主化という意味では、Excelの登場やインターネットの登場と同レベルの大きな出来事だと思う。
しかし、この民主化の結果、IT・AIがかなり乱用されている。特に業務の文脈では、無数の仕事が自動化され、後ろでAIが走る形になった。NotionやSlack、Teamsなど、ありとあらゆるコミュニケーションツールがAIで連結され、複雑なAI自動化が実行されている。だが、はたしてこのような自動化の大半は、本当に必要なものなのだろうか。
自動化すべき業務自体が、そもそも不要ではないか
私はそもそも、これらの自動化が対象としている作業自体が、本来不要なのではないかと思っている。確かに経費精算などの定型業務で入力が必要なものもあり、それらの自動化は推奨されるべきだ。しかし、業務の簡略化によって削ぎ落とせるものも多分に含まれており、意味のない自動化を行っているケースが多いのではないか。
例えば議事録の自動生成。誰も読まない議事録を作成し、Slackに貼り付けられた成果物も誰も見ない。外部の業者との会話など議事録が必要なケースはあるが、内部の小さなミーティングや仕様の確認にまでAIで議事録を作る意味はあるのか。忘れたならもう一度聞けばいい。そもそも私は作成された議事録がどこにあるのかすら知らないし、興味もない。
タスク管理ツールでも同じことが起きている。ウィークリー・マンスリーなど、特定のタイミングで行われる処理を自動化しているケースが見られるが、その定型処理自体をなくしてしまえば何もいらないはずだ。私の体感では半分以上は不要で、本当に必要な定型業務は1割程度だろう。
では、なぜ不要な自動化は減らないのか。それは「AIを導入した」「自動化を実現した」という行為そのものが、組織の中で成果として評価されてしまう構造があるからだ。本来、自動化は業務上の課題を解決するための手段に過ぎない。しかし、AI活用の推進が叫ばれる今、手段が目的にすり替わっている。誰も読まない議事録の自動生成も、誰も見ないレポートの自動配信も、「AI活用事例」としてカウントされてしまう。こうして、不要な自動化は組織の評価構造に守られて増殖し続ける。DX推進の文脈で繰り返し起きてきた手段の目的化が、AI時代にさらに加速しているのだ。
不毛なマッチポンプに陥らないために
こうした状況を踏まえれば、本来必要なのは業務のスリム化であるはずだ。しかし実際にはAIオートメーションで肥大化した業務をさらに肥大化させている。オートメーション化された処理は明文化されず、AIによる不確実な処理であるために、何が正しいのか、誰がメンテするのかが曖昧になり、組織の肥大化を招いていく。
加えて、本当に必要な1割の定型業務――それすらもAIに投げて人間の意識の外に置くことは、避けた方がいいと私は思っている。なぜなら、それは人間にとって必要なタッチポイントだからだ。毎朝タスクを手で整理する行為は、単なる作業ではなく、自分が今何を抱えていて何が重要かを身体的に把握する行為でもある。会議中に手でメモを取ることもそうだ。手で書くからこそ、話の要点を自分の頭で選別している。何を書き、何を書かないかという判断そのものが、理解と思考の訓練になっている。AIが自動生成する議事録は発言を漏れなく拾ってくれるが、それでは何が重要かを判断する力は育たない。便利さと引き換えに、自分の仕事の全体像を肌感覚で捉える力が静かに失われていく。地図アプリに頼りすぎて土地勘を失うのとよく似ている。
私自身はエンジニアでありAIはよく使う。コードを書く行為自体にはAIを活用する。しかし、それはあくまで道具として都度使うのであって、日常業務の中でAIに定型的に自動化させる処理はほとんどない。仕事でAIを使うのは大いに結構で推進されるべきだと思う。しかし、不要な業務を温存したまま自動化で覆い隠すような使い方は避けるべきだ。自分で増やした仕事を自分で自動化して叩き潰す――それは偽善に似た不毛なマッチポンプであり、果たしてそれは仕事と言えるのだろうか。







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