アダムスミスのinvisible handについて

駄文

youtubeをふらふらと徘徊していたら、とても面白い動画を見つけた。

国のお金はどこに消えているのか?っていうお話から始まって、石井紘基氏の話へと移り、中盤以降は経済の話ですらなくなっていきます。できれば頭から通して見た方が楽しいと思いますが、興味深かったのは1時間を過ぎた辺りからです。

フェルドシュタイン・ホリオカ パラドックスが出てきます。
これはどういう意味かというと、
「経済の自由化が起こると、経済理論的には金利の低い国から高い国へ資金が移動するはずだ。しかし実際には、ほとんどの国で自国へ投資が主となっている。なぜそうなるのか?」

そもそもコレがパラドックスだと理解するにはアダムスミスの国富論を知る必要があります。
この本の中にinvisible handという表現が出てきます。
本来アダムスミスが意図した内容は置いておいて、一般的なinvisible handの解釈としては以下のようなものになります。

個人が自己の利益を追求すれば、結果的に社会全体として適切な資本配分になる。
自己利益の追求と全体利益は一見矛盾するように見えるが、まるで「見えざる手」に導かれるように最適なものになる。
この解釈が飛躍すると、自由競争こそが好ましいとなり、規制反対となっていく。

何が言いたかったのかというと、自由競争下に置かれると全体の最適化が行われるのであれば、理論的には金利の高い国と低い国では資金が移動するのは当然だ。なのに実際に調べてみると、資本の移動は想像よりはるかに少ない。なぜだ?っていうのがパラドックスなわけです。

自分は経済を勉強したわけではありませんが、「自由競争こそが最も効率的だ。規制の撤廃を!」というような表現を何度も見たことがあります。また株式投資をする際にも理論株価や株価が全てを織り込んでいる、というような表現で市場は効率化されているというような表現をよく目にします。なので、このパラドックスを見た時に、たしかに不思議だなと思いました。

これに対して安冨歩氏はこう続けます。
アダムスミスは国富論の中でこう言っている。
経済の自由化によって金利の高い国への資本流出を考える人がいるが、心配しなくてよい。
invisible handの導きによってイギリス国内(※金利が低い)に投資する。

あれ?って思うわけです。
invisible handの意味が変わってる?

安冨歩氏の論文から国富論の該当部分を読んでみると、
投資家はprofitよりsecurityを好むという主旨の事が書いてあります。
Adam Smith’s answer to the Feldstein-Horioka paradox

つまり程度によるがsecurity > profitの傾向が元々ある。
自由競争により見えざる手によって最適配分へ行きつく。
と分けて書いてあるんですね。なので動画の説明だと若干飛躍がある気がします。
論文の趣旨としては、200年も前にアダムスミスはパラドックスの存在を指摘し、その説明までしている、となっているので論文自体は違和感のない内容です。

安冨歩氏 はさらに続けます。
国富論より前の道徳情操論でinvisible handについて議論されている。なので同じ意味のはずだ、と。道徳情操論では、人間は自分自身を監視する自分、他人の目シミュレータみたいなものを持っている(自分の行動が他人からどう判断されるかを考える)。 だから規制をなくして自由にしても人間はそれなりの秩序的行動をする、という主張がなされている。
なので他国への投資だとかは周囲から売国奴だと思われたりするんじゃないか、とかのinvisible handが働いて投資を手控えたりするんだろう。
また、このinvisible handの考えがのちにフロイトのスーパーエゴという概念になったと思う。

ここで出てくるinvisible handと、国富論のinvisible handが同じものかどうかは私には分かりません。なにせどっちも読んでないので。ただし、今回の文脈だけ見てみると、それぞれ意図しているものが違うのでは?という気がします。

動画の終盤でも議論されてますが、道徳情操論のinvisible handは現代の同調圧力やはみ出し者を嫌う風潮、いじめの心理、集団心理など、多くの事柄について 「他人の目を気にする行動」で説明できる内容だと思います。
一方で、国富論のinvisible handは、同じ単語ではあるが、必然的にそうなる(ただし理由は分からない)という意味で使っているように感じます。

同じ意味かどうかは分かりかねますが、「他人の目」という概念が心に刺さったので道徳情操論については読もうと思います。

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